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人体の不思議展 2003/11/22 東京フォーラム
プラストミック標体という、人体から水分を抜き、その代わりに樹脂を染み込ませる標本技術でつくられた、数十体の人体標本。
かつては生きていたホンモノの人体が、様々な角度から解剖されていて、一部コーナーでは、その弾力を直に触り確かめることもできる。
行く前に、ポスター写真で見た感じでは、「グロくてちょっとダメかも・・・」と思っていたのだが、
実際に行って見ると案外リアリティが無くて、精巧な模型を見ているような気分で、細部までじっくりと観察する事ができた。

コンピューターの本などで、imacを分解したところを見ると「よくもこれだけのパーツを隙間無く組み合わせて詰め込んだな」と感心するのだが、
人間の内臓にも同じことを感じた。
体から取り出された肺・胃・腸・臓器は、そっくりそのまま骨盤とあばら骨で囲われた空間の形状をなぞっている。一分の隙も無く。
こうやって人体の中身をしっかり見てると、体ってホントに無駄がなくて感心する。
しかし、『無駄がない』=『シンプル』では決してなくて、どこから手を付けたらいいのか分からないほど、気が遠くなるほど複雑。
この複雑さは、どんなに人間が頑張って研究してみても、永劫に解明される事のないその不思議な成り立ちなのだと感じた。
奥が深いですよ、これは。僕はそういうことの素人だけど、でも僕の中だってあんな風になっている。
ごはんを食べてエネルギーとクソを出し、走れば息が切れて、時々頭痛にもなったりする。
でもそれが何故なのか、心臓がどうして僕の意思とは無関係に勝手に動き続けているのか、ある日突然止まっちゃう事は無いのか?
筋肉痛にはならないのか?自分のことなのに分からない事だらけ。

腸の標本の前に立ち、自分のお腹に手を当て、中の事を想像してみる。
ヨガとかヒーリングの人も、「深呼吸をした時、水を飲んだ時、自分の体で細胞で、今何が起こっているか、意識してみてください」と言う。
そういう意味でも、体がどうなっているかを一通り(なんとなくでも)知っているのは意味のあること。
「お腹が痛い」って思うとき、それは小腸なのか大腸なのか、胃の出口のあたりか、それとも肝臓なのか、今まで考えた事も無かった。「おなかは、おなか」って認識じゃ、あまりに体に失礼だった。
世の中には知らない方が良い事もたくさんあるだろうが、こと自分の体のことくらいはしっかり知っておくべきだと、強く感じた。

また余談だが、性器が詳しく展示されているコーナーは、常に人が途切れることなく、これだけすごい標本が数あるにも関わらず、結局みんな局部に関心が集中しちゃう可笑しさがあった。
群れる人々の話し声、そこかしこから聞こえてくる、「海綿体が・・・」「・・・の海綿体」「海綿」「海綿」・・・・。
もちろん僕も、食い入るように見てきましたけどね。

性器と並んで、人混みの絶えなかったコーナーがもう一箇所、胎児の解剖していないそのままの標体。
3ヶ月、4ヶ月、5ヶ月、6ヶ月、7ヶ月、8ヶ月、10ヶ月、の胎児。
今ウチのカミさんのおなかは7ヶ月、というとこれくらいかな。
この標体になっている子たちは、どうしてこうなっちゃたんだろう?
オギャァと言うことなく、途中の姿で、こうして永久に止まったまま。
今まで見てきた標体は本人の意思で死後に献体された人々。年老いたかたが多かったように思う。
それぞれこの世で人生を送った人たちの、最後の瞬間を永久に閉じ込めたもの。
こう言ったら失礼かもしれないが、使い古された肉体。
しかし、胎児はちょっと事情が違うよね。
何かがあってココまでしか生きられなくて、産まれ出ててくるところまでいけなかった子たち。
出来る事なら、途中で止められてしまったストップウォッチをもう一度押してあげたくなる。
大人の、現実にこの世を生きていた人々の標体よりも、
今まで見たことなかった、普通にしていたら目にすることのない、あの小さな子たちの方が、不思議なことにリアリティがあって、
その場から立ち去りがたい、心をキュッと掴まれているような、なんとも言えない場だった。

以前にカミさんと話した事を思い出す。
「もし僕が来年あたりに死んで、献体を希望したらどう?」
普通に火葬してしまえば、もう二度と会うことも触れる事も出来ないけど、プラストミック標体ならそれが出来るかもしれない。
自由に再会が出来る環境ではないだろうけど、少なくとも消えていなくなったわけではない。
火葬場の、焼きあがった寝台が釜から引き出された瞬間の、引き剥がされるような喪失感を味わう必要はないはずだ。
愛する者の死を受け止め、整理し、受け入れるための時間を、無理のないかたちで作れるのかも知れない。
しかし、あの子たち胎児の親は、いったいどんな気持ちだったのだろう?
若い夫婦の希望の結晶が、実はおなかの中で静かに息を引きとっていたと知った時の、転地がひっくり返った日の悲しみと無念さを、僕は知っている。
展示ケースの中で、樹脂で固められた一度も目覚める事なく永遠に眠る彼らの姿は、尊く、息が止まるほど美しかった。
彼らをお腹に宿していた実際の親は、永久の時間を獲得してしまったこんな美しい胎児の姿に、正面から向かい合うことができただろうか。
医学の発展のための献体、と割り切る事ができたのだろうか。
胎児の献体は、産まれて来ることすらできなかった我が子に、命を与えてあげられる唯一の方法でもあり、
でもそれは同時に、なにかあきらめきれないものを永久に、親の心の中に残し続ける事になるのかもしれない。

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