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| 「これ、いなかったな・・・」 舟越桂の彫刻は、ほぼ等身大。 顔は生き写しのようにリアルにつくり込まれ、鼻は高く、幅が細く、小顔の西洋人。 それに対して胴体は、子供の遊びみたいに簡単な表現で、顔の割にはちょっと大きめに作ってある。 真横に並んでみると、まるで本当の人物のように、『感じる』し、 顔を近づけてよーく観察してみると、半開きの口からは、今にも生温かい息が漏れてきそう。 楠の密実な胴体からは、強い命の力を感じさせる。 しかし、一歩引いてみるとどうだろう。 途端にその生命感は失われる。 胴体が子供っぽいから? 違う、目の焦点が合っていない事が、分かるからだ。 大理石の瞳は、ワザと視線の先を微妙にズラしてはめ込まれている。 観客とは決して、目が会うことはない。 コミュニケーションが完結しない。 だから、作品との対話には終わりがない。 「ある人間が、そこにいるという感覚が気になる。興味がある。 作った人物の彫刻は物なのだが、魅力ある存在にしたい。 代理としての人間のかたちのものでなく・・・ 肖像という形をとったものをつくりたい。」(舟越桂のメモより) 舟越の、特に初期の作品には、人生がある。 彫刻として完成した瞬間から、すでに『過去』を持って産まれてくる。 そして、ここではない何処かを見るその姿には、それぞれの時間が流れている。 ゴッホのような、ある一瞬を写し取る芸術ではなくて、 村上春樹のように、時間そのものを写し取る芸術と言えば良いのだろうか。 同じ平面に居ながら、決して交じり合うことのない人生。 大きな展示室に点在する、数体の彫刻と、数名の他人同士の観客。 分類・整理され、積層されたレイヤー。 出口の物販で、この展覧会のプログラムをパラパラ眺めていたら、 会場の展示にはなかった、革ジャン姿の青年が写っていて、つい出た言葉。 「これ、いなかったな・・・」 「これ、無かったね」でも 「この人、いなかったね」でもない。 『これ』 『いなかった』 今の時代を、特に都市で暮らす僕らは、関わり合う事のない大多数の他人を、そう感じているような気がする。 『モノ』ではないが、『ひと』でもない。 近くに寄れば、生温かい息も、肉体の鼓動も感じるのに、 ほどほどの距離で、ほどほどにスタイリッシュ。 東京都現代美術館 なるほどね、たしかに『東京都』の『現代』だわ。 ![]() |
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