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舟越桂 Works1980-2003 2003/05/23 東京都現代美術館
「これ、いなかったな・・・」

舟越桂の彫刻は、ほぼ等身大。
顔は生き写しのようにリアルにつくり込まれ、鼻は高く、幅が細く、小顔の西洋人。
それに対して胴体は、子供の遊びみたいに簡単な表現で、顔の割にはちょっと大きめに作ってある。
真横に並んでみると、まるで本当の人物のように、『感じる』し、
顔を近づけてよーく観察してみると、半開きの口からは、今にも生温かい息が漏れてきそう。
楠の密実な胴体からは、強い命の力を感じさせる。
しかし、一歩引いてみるとどうだろう。
途端にその生命感は失われる。
胴体が子供っぽいから?
違う、目の焦点が合っていない事が、分かるからだ。

大理石の瞳は、ワザと視線の先を微妙にズラしてはめ込まれている。
観客とは決して、目が会うことはない。
コミュニケーションが完結しない。
だから、作品との対話には終わりがない。

「ある人間が、そこにいるという感覚が気になる。興味がある。
作った人物の彫刻は物なのだが、魅力ある存在にしたい。
代理としての人間のかたちのものでなく・・・
肖像という形をとったものをつくりたい。」(舟越桂のメモより)

舟越の、特に初期の作品には、人生がある。
彫刻として完成した瞬間から、すでに『過去』を持って産まれてくる。
そして、ここではない何処かを見るその姿には、それぞれの時間が流れている。
ゴッホのような、ある一瞬を写し取る芸術ではなくて、
村上春樹のように、時間そのものを写し取る芸術と言えば良いのだろうか。

同じ平面に居ながら、決して交じり合うことのない人生。
大きな展示室に点在する、数体の彫刻と、数名の他人同士の観客。
分類・整理され、積層されたレイヤー。

出口の物販で、この展覧会のプログラムをパラパラ眺めていたら、
会場の展示にはなかった、革ジャン姿の青年が写っていて、つい出た言葉。
「これ、いなかったな・・・」

「これ、無かったね」でも
「この人、いなかったね」でもない。
『これ』 『いなかった』

今の時代を、特に都市で暮らす僕らは、関わり合う事のない大多数の他人を、そう感じているような気がする。
『モノ』ではないが、『ひと』でもない。
近くに寄れば、生温かい息も、肉体の鼓動も感じるのに、
ほどほどの距離で、ほどほどにスタイリッシュ。

東京都現代美術館

なるほどね、たしかに『東京都』の『現代』だわ。

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